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海辺のカフカ







<DATA


新潮社 2002年


「ねじまき鳥クロニクル」以来の長編小説。7年ぶりということもあり、発売前から相当の注目を受ける。

その7年間、何もしていないわけではなく、「地下鉄サリン事件」の生身の声をインタビュー形式で集めた「アンダーグラウンド」を出版。

長編に近いかたちでは、「スプートニクの恋人」(本人は中編小説と位置づけている)で、
これまで使ってきた文体を洗い直すために作品を書いたという。




文体というと、村上春樹の文体はほとんどすべて一人称でした。『僕』が語り、『僕』が物語となっていました。

失いや移ろい、時代感や切なさといった繊細なテーマが読者の心を打ってきたのですが、
ここに来て、長編で本格的に三人称のスタイルを採用するに至りました。







三人称のスタイルというものは、全知者、つまりナレーターを語り手とするタイプのもの。

主にミステリ作品で、多く採用されています。


ナレーターを採用することによって、一人称小説の弱点である『主人公』が居ないところで、

物語が進まないということが解消されます。視点を絡み合わせることが可能になり、

複合的なヴォイスを取り入れることが出来るようになります。

カフカの章では一人称で物語り、ナカタさんの章では三人称を使用。






例えば、頭に障害のあるナカタさんを軸に使うことは一人称では不可能です。
ボキャブラリが浅く、地の文が成り立たないのです。





『複合的なヴォイス』、『多彩なカメラワーク』には三人称で書くことで、うまくいくケースが多い。村上は意識的にそれを取り入れました。


「ダンス・ダンス・ダンス」的な世界への決別と、
『複合的なヴォイス』、つまり『アンダーグラウンド』の影響が色濃く意識に表出した結果となりました。









<感想


サリンジャーの著書、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」に次のような一節があります。


「でも僕が言いたいのはですね、なんていうか、いったん話を始めてみるまでは、
自分にとって何がいちばん興味があるかなんて、わからないことが多いんだってこと
なんです。
それほど興味のないものごとについて話しているうちに、ああそうか、ほんとはこれが話したかったんだって
見えてきたりするわけです」
−306ページ 村上春樹訳 白水社







概して、村上春樹の小説へのアプローチは、これによく似ています。
「海辺のカフカ」にしても、漠としたイメージから書き始めています。
イメージが連なっていくと、やがてそれは物語となっていきます。
骨格が見えてくる。概略が伝わってくる。
意識が物語と化していく。


こういう霊感的なアプローチの仕方で出来上がる物語というものは、テーマがあって、そのテーマを埋め込んでいくべく
創り上げる小説とはずいぶん出来上がりが違ってきます。意識的に創り上げる小説は、意識的な固さがあり、巧みさがあり、
あっと驚くような仕掛けがあったりします。でも、そういう小説というのは、あらかじめ設計図が決まっていて、身近な例で言うなら、
作者はプラモデルを作っているようなものです。見取り図を手にして、完成に向かって進んでいくというもの。



村上の小説の創り方は、書き進めていくうちに、自ら何かを見つけ出していく。設計図なんて、最初から存在しないのです。

書いている時、彼はまるで「ロールプレイングゲームのように冒険している」と表現します。つまり、ぼくらだけではなく、

作者である村上春樹も冒険者のひとりというわけです。




だから、村上作品は、読み終えた後の不可解さというものが大きいのです。ひとつの物語で、ひとつの解決があるのではなく、

読み終えるとそこには多くの余地が残っている。
そんな小説ばかりです。その余地の多さでは、「海辺のカフカ」は群を抜いているのかもしれません。






とにかく、ミステリアスな部分が多くて、最後まで明らかにならないところもあります。例えば、ジョニーウォーカーという人物が
いったい何者なのかについて。カーネルサンダーズという存在について。カフカの母について。


余地がたくさん残されたまま、物語は本のなかでは終わっています。
あとは、ぼくたち自身の物語を想像していけばいいわけです。たぶん。






そして、この小説は難しい目で見ようと思えば、とことん難しく解釈することも可能です。
でも、そういうのはぼくはあんまり好きじゃないし、
好きなように感想を書かしてもらうとですね。
読み終えて、無性に高松に行きたくなりました。カフカ少年のように高速バスに乗って、高松へ行きました。


パーキングエリアでは、用も無く降りて、その空気を吸いました。
それから、どういうわけかパーキングエリアというものが好きになりました。


時間がくぐもって滞留しているところとか、
人々が何をするわけでもなく足を休めている風景とか。
そういった光景がなぜか微笑ましく映ってしまいます。




星野青年のようなさっぱりした生き方の人と旅をしてみたいと思ったりします。

2001年のフジロックの旅行みたいな感じかな。

目に映るものが、楽しくて仕方がないという旅。あてもなく始まって、それでいてしっかりと辿り着くもの。




色々、想像してしまいます。物語の意味を突き詰めていくなんてことは浮かびませんでした。
もちろん、そういったことも可能です。




しかし、ぼくの自然な反応として、旅に出たいとか、
四国のうどんが食べたいとかそんな気持ちを抱かせてくれる小説
でした。


そういう小説って、なかなか素敵じゃないでしょうか。物語を突き抜けて、いろんな気持ちを抱かせてくれる小説って。




あとは、そうですね。猫のカワムラさんかな。なんとなく、愛着があります。理由はよく分からないけど。








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